僕らはまだ旅の途中


 澄んだ青空に、爽やかな風が吹く。
 心地よい陽気に照らされた同盟軍本拠地は、どこかひりつきながらも浮ついた、騒々しい気配で満ちていた。
 ハイランド王国との最終決戦は、もう間もなくである。一時は都市同盟のほぼ全てを占領していた威勢はもはや、ない。同盟軍としても、一気に皇都ルルノイエまで攻め上がる算段だ。
 この戦いが終われば、本拠地に集まっていた人たちはそれぞれ旅立つことになる。
 決戦の先に、新たなる始まりの予兆を感じ取ってか。皆、忙しなく出陣の準備や城の片付けを行っているのだった。
 当然、弓兵隊隊長フリックの部屋も、準備と片付けの真っ最中である。
 フリックは早々に支度を終えて、戦いから戻ればすぐに旅立てる状態だった。
 傭兵としての習い性だろう。元々荷物を増やさない人なのだ。あとは武器や防具の手入れくらいか。
 いつの間にかフリックの部屋に居着くことになったティルも、持ち込んだ私物はさほど多くない。一応貴族の育ちではあったが、二年間の戦争と三年間の旅暮らしですっかり質素な生活に慣れてしまった。
 一応、リオウが用意してくれた部屋はあった。だが恋人になったとたん、フリックの部屋に連れ込まれ、そのままなし崩しになっている。
 それも今となってはよかったのかもしれない。なにしろ旅の間でも、ティルの荷物はグレミオがまとめてくれていたのだから。
 ティル一人でやろうとすると、きっちりするだけ時間がかかるか、手早く済ませてぐちゃっとなるかの二択だ。今回は時間に余裕があるから、丁寧に荷造りすることを選んだ。服一枚から、慎重に畳んでいく。
 ふと、窓を開け放ったフリックが振り返った。
「ティル」
 普段から青が似合う、だけではない。
 青空を背景に、端整な顔立ちが甘やかな笑みを浮かべると、見慣れたティルでさえ頬が熱くなる。
「この戦いが終わったら……グレッグミンスターに帰るのか?」
 どこかの話で読んだ、フラグのようだ。
 などと、ティルはぼんやり考えた。即答できなかったことこそが返事だった。
 柔らかな表情を浮かべていたフリックが、瞬時に顔を引き締める。透明度の高い青が鋭く細められる。そうすると人好きのする青年から、一気に冷ややかな印象になった。
 無言の、圧。
「……実はちょっと、迷ってるんだ」
 観念して、ティルは首をすくめた。
 グレミオもクレオも、グレッグミンスターの屋敷で待ってくれている。
 リオウを、軍主を瞬きの手鏡の効かない国外へほいほい出すわけにはいかないからと、里帰りは自重していた。
 どうせ久々に帰るなら、グレッグミンスターにしばらく滞在してもいい。フリックも、たまには顔を見せてくれるだろう。
 彼はどうやらビクトールと旅に出るらしいので、ふたりがよしとするなら同行させてもらうのも楽しそうだ。
 ────だがソウルイーターのことを考えれば、戦後の混乱に乗じて身をくらますべきだという思いがあるのもまた、確かだった。
 それが自分を大事に思ってくれる人たちを蔑ろにする行為だとわかっているから、思うだけだったけれど。
 察したらしく、フリックはため息を吐いた。
「……ひとりで出て行くつもりはないんだな?」
「うん。……さすがにね、みんなに悪いから」
「そう思ってくれてなによりだ」
 言って、いや、とフリックは首を振った。
「ずるい聞き方するより、俺から言うべきだったな」
「フリック?」
「ティル。俺と一緒に、旅をしないか」
 ざあ、と。埃の立った室内を洗い流すように、風が駆け抜けていく。
 空の色が、今は羽織っていないマントがはためく光景を、ティルは幻視した。
 バンダナの青がなびき、風の道を形作る。
 ひどく、眩しい。
 ────オデッサさん。
 フリックの気持ちを受け入れた日から、時々胸の内で語りかける名前をまた、呼んだ。
 彼女は「いつも、いつでも、フリックの優しさになぐさめられた」と、そう伝えてくれと言い残した。
 軍主だった頃のティルも、その気持ちは少しだけ理解できた。
 情に厚くて、素直で、尖ってみせても本質は温かい人。
 だからこそきつい態度を取られても嫌いになれなかったし、和解した後はなにかと気に掛けてくれることがくすぐったかった。 
 だけど今は、彼の優しさだけでなく、その真っ直ぐな気質にこそ救われていると思う。
 ティルが口に出せなかった望みも。渡しきれない気持ちも。フリックは裏表なく伝えてくれるから。
 風が止む。
 一歩、二歩。こちらに歩み寄って、フリックは笑った。
「おまえと離れたくないんだ」
 そして、気まずそうに頭を掻く。
「……まあ、ふたりっきりとはいかないけどな。熊もいるし」
「ビクトールが怒るよ」
「怒らせとけよ」
「……グレミオもついてくるだろうし」
「グレミオは、おまえの帰る場所なんだろ。だからちょくちょく里帰りすればいい。おまえが元気で楽しくやってるなら、こまめに手紙を出せば許してくれるさ」
「置いてこいってこと?」
「子離れも必要だぞ」
 いつしかティルも笑っていた。
 弾かれるように足を踏み出す。まだ空いている、僅かな距離を埋めるために。
 あと一歩というところで、長い腕に引き寄せられた。あ、と思って、『フリックの部屋だからいいか』と思い直す。
 だからティルは腕を伸ばして、普段は防具に覆われている胸板に顔を埋めた。自分でも驚くほど大胆な行動だと思った。
 別れを覚悟したさみしさを、今まで押し殺していたからだろうか。
 日差しの匂いを胸いっぱいに吸い込んだときだった。
 上から、ささやくような声が降ってくる。
「ティル。────俺は、おまえを置いていくつもりはない」
 反射的に肩が震えた。だけど逃げるのは許さないと言わんばかりに、強く強く抱き締められる。
 震える口をどうにか動かして、言葉を絞り出した。
「……無理だよ。覚悟はしてる」
「無理じゃない。旅のついでに、真の紋章を探すつもりだ。……国がひっくり返るような騒乱には、真の紋章が関わってくることが多い。傭兵としても一石二鳥だしな」
「何年かかると思ってるの。仮に見つかったとしても、うまくいくとは限らないんだよ」
 紋章に魂を食われる可能性も承知の上で、笑って手を伸ばしてくれた人。
 自分が殺してしまう可能性に怯えながらも、手放せなかった人。
 別れは最初から覚悟しているのだ。いつか必ず喪うのだからと、ならばその前に手を伸ばしてもいいだろうと、開き直る方がよほど簡単だった。
 だけど。
 一度希望を渡されて、また無残に毟り取られたら、もう二度と立ち上がる自信はない。
 胸に額を押しつけて、回した腕に思いっきり力を込める。精一杯の抵抗は、猫が爪を立てたようなものだったのだろう。
 フリックは甘やかにさえ思える声で言った。
「……一応、勝算はあるんだぜ。最後の手段、ってやつだ」
「どこに……」
 秘密をそっと共有するように、低い音が流し込まれる。
「星辰剣」
 ────夜の、気配。
 ぞっと、ティルの背中が総毛立った。
「ビクトールはあいつを手放したがってる。……星辰剣も、封じられたら退屈を持て余すだけだ」
 優しい手が、なだめるように背中を撫でていく。そして長い指先が、首元にかかった。
 顎を持ち上げられて、青い双眸に射抜かれる。
「真の紋章と契約できるなら、どんな条件だって呑むさ」
 ティルがこの先何百年も抱えるはずだった孤独を、この人は分かち合ってくれるという。
 夢にも望めなかった願いを、叶えてくれるという。
 泣きたくなるほど嬉しくて、どうしてか、首筋に鎌を突きつけられたような気がした。ソウルイーターは、ティル自身の右手に今もあるのに。
「……真の紋章は……不老以外の呪いももたらすんだよ……」
 最悪とも言われるソウルイーターほどではなくとも、重い代償を負わせられる可能性は高い。いつか、後悔する日が来るかもしれない。
 フリックは、微かに笑ったようだった。
「覚悟なら、ある。……おまえを置いていく覚悟をするより、よっぽど楽だ」
 ああ、とティルは嘆息した。
 フリックはお人好しで、温かくて、優しくて────過ぎるほどに、真っ直ぐで。
 だから彼が覚悟を決めた≠ニ言うのなら、オデッサと名付けられた剣に対する誓いと同義だ。命をもってしても、彼はその誓いを守るだろう。義務ではなく、ただ己の信念ゆえに。
 だからこそ強固で、だからこそ鋭い。
 一振りの剣にも似た人なのだ。
「……君は、馬鹿だよ」
「そりゃおまえに比べたらな」
「せっかく僕が、魂を食う覚悟まで決めてたのに」
「そう言って、おまえは食ってもくれないだろうが」
「当たり前だろ。……誰が、そんなことしたいもんか……」
「ばーか」
 声を上げて、フリックが笑う。
 太陽をいっとき隠した雲が通り過ぎたのか。部屋の窓から差し込んだ日差しが、床を白く焼く。
 まばゆく明るい空間とは区切られた、光の届かない範囲。薄い影の落ちる場所に、ふたりで立っている。
 青空と太陽が似合う人なのに、夜の淵へと引きずり込んでしまった。
「……僕らは、馬鹿だ……」
 ビクトールが知れば驚くだろうか。意外と、「オデッサとおまえに惚れるような男が、普通なわけないだろ」と呆れるかもしれない。
 確かに、と想像の中の彼に頷いて。ティルはただ、優しい温もりに身を預けた。
 ひどく怖くて、それ以上に幸せな気分だった。
 まだ、どこへも辿り着いていないのに。

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幻水108題 043. 夜の王



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